Saturday, March 22, 2014

大学に行くとは,「海を見る自由」を得るためなのではないか - 渡辺 憲司 [memo]

前エントリー を書いていて,「教育」「震災」とったキーワードから,ふと思い出したメッセージがあります.

とある教育者の,3年前の卒業生に送ったメッセージです.今読み返してみて,改めて感動しました.ここに一部抜粋して紹介しておきます.

大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。

大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。

大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。

多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。

楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。

君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。

学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。

誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。

大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。

言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。

大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。

大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。

「今日ひとりで海を見てきたよ。」

そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。

時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。

いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。

いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。

海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。

鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。

-- 渡辺 憲司 (立教新座中学・高等学校長)


卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)立教新座中学校・高等学校


Friday, March 21, 2014

教育とは,世界を変える一番手っ取り早い手段である / 世界がわが家 [diary]

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2010年にウガンダを旅したこと は,今も自分の人生の中で強烈な光を放っている想い出の1つです.そこで会った子供達に再会してきました.

アフリカ,アジア,北米,ヨーロッパの四大陸を音楽で1つにするというコンセプト.ウガンダのエイズ孤児による歌とダンス,東日本大震災で親を失った遺児による和太鼓,アメリカのヴァッサー大学の聖歌隊による合唱,それらをイギリスのジョン・ケアードが演出するという舞台です.

このジョン・ケアードという人,私はこのイベントまで知らなかったのですが,レ・ミゼラブルなどを手がけた世界的に有名な演出家らしく,今回のパフォーマンスもミュージカル仕立てでストーリ性があり,純粋にエンターテイメントとして素晴らしいものでした.

エイズや津波で親を亡くした子供達の朗読は心に突き刺さるものがありました.彼等の痛みは私が想像できるものではないでしょう.その痛みは消えないかも…いやもしかしたら和らいだりすらしないかもしれない.でも人生には楽しいこともあって,ふとそちらの方に目を向けることはできる.音楽には,そうさせてくれるパワーがある.

…そんなことを感じさせるパフォーマンスでした.いいライブというのはいつも,演っている本人があまりに気持ち良さそうで,自分も一緒にステージに立ちたいと感じさせるもの.まさにそんな舞台でした.

それともう1つ.このイベントを主催した,あしなが育英会の「すべての子供に教育を」というビジョンに,心より賛同します.別に慈悲・慈善でそう言っているのではなく,教育とは,世界を良い場所にする一番効率的な手段だと思うからです.10歳の子供の教育水準を上げることができたとして,たった10年後にはその子は大人になっている.これほど即効性のある投資が他にあるでしょうか.

コラボレーション音楽会「世界がわが家」終演!たくさんのご来場ありがとうございました。


Tuesday, March 11, 2014

まあなんていうか… [reflection]

自然に流れる水のように生きていきたいよね.うまく言えないけど.
流れに逆らうのでも従うのでもなく,流れそのものであるように.