2006年2月11日土曜日

Google が思考の枠を規定する? [memo]

CNET Japan・森 祐治さんの 思考の枠を規定するグーグル という記事より.
私は Google について,このエントリー で,「新たな世界地図を描いて世界の覇者になるかもしれない」という表現をした.また梅田さんは,「ウェブ進化論」 で Google について彼なりの明快な説明をされている.最近,Google という企業が,「ただの検索エンジンではない」ということについて言及する記事も増えてきたように思う.上記 CNET 森さんの記事もその1つ (そのうちいちいち紹介できないほど増えていくかもしれない).

この記事は,「メディア」という切り口から Google が我々に及ぼすかもしれない「思考の牢獄」というところまで議論を発展させているという点では非常に興味深い.ただ,全体的に少し悲観的な感じがしてしまう.

そもそも,この記事の中で森さんの立ち位置が良く分からない.というのは,前半2ページの途中までは,「学生諸君が提出するレポートが Google の検索結果を切り貼りしたものばかりになりつつある」という例を挙げ,

それは、教育で獲得されるべき「物事の捉え方」や「理解の仕方」という側面が大きく抜け落ちつつあるということだ。

と,Google 検索が発展しすぎた結果の代償に警鐘を鳴らしているように伺える (※1).

ところが後半では,Google 検索「ありき」で,検索結果などによって得られる情報から「更なる思考を展開することでこれまで得られなかった成果により生活品質を高めるという機会」があるという前提で,「検索結果を何らかの形で制限すること」が我々を「思考の牢獄」に閉じ込めると説いている.

結果、このような環境下に生まれ、育つ人々は、それ以外の環境で生を受けた人々とは全く異なる「思考の枠組み」に生きることを強制され、「思考の牢獄」以外の世界を想像することなく一生を終えることが大多数になるのではないか。

とし,最後には「洗脳」という言葉まで持ち出されている (※2)

私はこう考える.

まず前者の議論 (※1) については,「新しい世代にとって,ネット検索により情報を収集するのはごく当たり前のこと」になりつつあるということ.極端に飛躍した例を挙げれば,今日の世界で大阪から東京まで新幹線で移動する人を見て,「なんてけしからん! 江戸時代には参勤交代で各藩の大名は歩いて江戸まで行っていたんだ」と言う人はまずいない.10年後 (あるいは20年,30年後かもしれないが) にネット社会が今現在持たらしている革命を歴史が証明する頃には,「検索結果によって情報を収集しないこと」は今日の「参勤交代」ぐらい過去のものになっていて,その枠組みの中で「物事の捉え方」や「理解の仕方」はきちんと養われていくのではないか.

また後者の議論 (※2) については,あえて私はとことん楽観主義を貫いてみたいと思う.つまり,いわゆる「ネット社会の自浄作用」が働くと思っているのだ.Blog を始めとする public journalism は,もはや絶大な影響力を持っている.もしブロガーの10人に2人か3人が,「Google が検索結果を (我々の思考が規定されるレベルまで) 制限している」と感じて,「おい,Google なにやってるんだ? 貴様らは世界を『better place』にすると約束したんじゃなかったのか?」という声をあげれば,その wisdom of crowds はきっと無視できないものになるだろう,と.

Google という企業は,確かに畏怖の念を与えるかもしれない.でも私は,同時に非常に期待しているのだ.「200年かかったかもしれないネット革命が,Google という異端児が登場してイノベーションに火をつけてくれたおかげで,10年 (20年でも30年でも構わないが) で済んだよね」と言ってみたいのだ.かつて Jimi Hendrix がギターという楽器に革命をもたらしロックのみならずクラシックにも絶大な影響を与えたように,Jim Morrison や Bob Dylan がそのあまりにも深い詩の世界で音楽のみならず文学にも変革をもたらしたように,The Rolling Stones が ロックの世界を,そして The Beatles が音楽の全てを変えてしまったように,今度こそは改革がリアルタイムでこの目で見れると信じていたいのである.


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